4/2.3は青山神社例祭が執り行われました。
(コロナ禍により神事のみ)
みなさん、学問と教育の神さま 青山神社のいわれについてご存知でしょうか?
青山神社にこう書かれていましたのでご紹介いたします。
※もし間違いがあればコメントでお知らせください。
篠山城主であった青山家ゆかりの、ここ篠山城後本丸に、明治15年5月青山神社を創建して、青山家十代の名君青山忠俊公を祭神とし、青山家の御霊をお祀りいたしました。大正5年4月には、社殿を改築して規模も大きくなりました。
さらに昭和5年には、篠山城主であった18代の名君青山忠裕公を合祀し、学問と教育の神さまとして、偉大なる人格が敬慕されてきました。
このことについて要点は次の通りです。
[祭神]青山忠俊”きびしく家光をいさめる”
忠俊は元和2年(1616年)に、家康の孫に当たる竹千代(後の3代将軍家光)の幼児の輔導役(養育係)となって「勇をもって守り育てるように」と命ぜられました。強い心の手ごわい忠俊は、心をつくして竹千代を厳しくいさめ育てました。
後に将軍となった家光が、幕府を確かにかため治めることができたのは、忠俊の功績も大きかったことを物語っています。
忠俊は、寛永20年4月15日(1643)逝去(享年66才)
[祭神]青山忠裕”善政をしいた城主・学問をすすめる”
忠裕は、教育によって人物を育てようと、篠山藩校「振徳堂」の学舎をふやし充実して、読書・習字・算術・習礼の教科を学習させました。
さらに藩校の玄関には「石敢當」と云う魔よけの石柱を建て、教室の中へ魔が入ってこないように護りました。これほどに学習の場を大切に護ったのは全国的にも珍しいことです。老中を32年間も勤続して、その功績が認められ、篠山藩は1萬石加増され六萬石となりました。
忠裕は、天保7年3月(1836)逝去(享年69才)
本来なら、本宮では春日神社へ渡御の行列があり、御輿とともに鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓の合図で練り歩きます。
来年は、篠山城の桜吹雪の中、勇壮な行列が見れたらいいですね~。